彼女の福音
肆拾参 ―
杏様のせいで死に至る病 ―
「そう言えば、久しぶりねぇ、ここに来るのも」
あたしは陽平のアパートの前に立つと、感慨深げにため息をついた。考えてみれば、ここのところあたしが陽平のところに行くよりも陽平があたしのところに来ることの方が多くなってきた。もうちょっとあたしもこっちに来た方がいいかしらね、と思いながら、ベルを鳴らす。
惑星155-32に派遣された陽平から通信が途絶えてから120時間が経った。緊急用の救難シグナルも発信されないことに事態の異変を察知したあたしは、一人連絡員として扉まで辿り着いた。
うーん、SF風に言うとこうなるんだけどねぇ。オチとしては陽平は惑星に適応して別の生命体になったって感じかしら。ちなみに、ホラー風に言うとこうなる。
雨の降る夜、陽平から電話がかかってきた。陽平は切羽詰まった声で一言「助けt……」と言ったきり、電話を切ってしまった。愛しの彼氏の安否を確認するために、あたしはありったけの辞書を抱えて、ハウス・オブ・ザ・アンデッドと呼ばれるその家にやってきた。
何だかナムカあたりがアイディアに詰まった時に考えそうな話よね。まあ言い方は違うかもしれないけど、とどのつまり陽平にメールを送ったのに返信が来なくなってから五日経つ。通話しようにも、ぜんぜんつながらないんじゃ、実際に会って話すしかない。
あたしが扉を開くと、そこは抽象画のような光景になっていた。ピカソが変なヤクをアルコールとともに飲んでサイケデリックな絵の具を渡したら描きそうな異次元空間を前に、あたしはため息をついた。
「ちょっと陽平、どこをどうしたらあんたこんなに部屋が散らかるわけ?」
「……あ……きょ〜……」
部屋の奥で元気のない声が聞こえた。
「……陽平?」
「あー……こないほーが……いーかも……」
「へ?何でまた?」
あたしは訝しげに魑魅魍魎の住処(いや、まぁ陽平も魑魅魍魎とも言えなくもないけど、この場合部屋がそう見えるってことね)に足を踏み入れた。そして散らかるという言葉に入りきらないくらい散らかった部屋の中の獣道を通って、奥に通った。
「……大丈夫?」
「……ちょいとだいじょばない……」
陽平は布団の下から鼻水まみれの赤い顔で答えた。何というか、もしイケメンな容姿に魅かれて陽平と付き合ったんだったら百年の恋も冷めるというものだが、まぁあたしの場合陽平にそんなことでは幻滅しない。何せ週に一度は顔にモザイクがかかるんだから。
「それって……だれのせーだよ」
「あんたのでしょ」
見るからに病人の彼氏でも一言で切り捨てる。これが杏様クオリティ。
「で、どこが悪いの?頭以外に」
「……あたまがいたい……はなみずでいきできない……さむい……」
「頭痛、鼻水、寒気、と。体が痛いとかある?」
「……いたくないかな……」
「ふーん、筋肉痛はしないの……困ったわ」
あたしは椋が教えてくれた情報をつなぎ合わせると、ありえない結果に出た。
「これって、ちょっとないわよねぇ」
「へ……どうしたの、きょー……そんなにおもいびょうき?」
「うーん、重いかしらねえ……あのね、よく聞いてね陽平」
「……うん……」
「耳かっぽじって聞くのよ?ちゃんと聞いてね?」
「うん、きいてるよ……」
あたしは覚悟を決めると、陽平に向かって言った。
「陽平、あんた、風邪みたいよ?」
「なんで……そんなにありえない……んだよ」
「だってあんた馬鹿だし」
「……」
「馬鹿って風邪引かないのよねぇ。細菌でも馬鹿が移ったら困るってことかしら」
「……そこまで、いうかな……ふつー」
「言うわよ」
「……」
風邪、しかも冬場よりも重いと言われている夏風邪をひいて苦しんでいる彼氏を一言で撃沈。これこそ杏様クオリティ。
「でも変よねぇ。今、春でしょ?何で風邪なんて引くのよ?」
「……あのね……これにはふかいわけがあるんだよ」
「はいはい。聞いたげるわよ」
「おらおらおらおら、春ピー一気飲めんだろ?」
「わーいー、春ピー、いっきー」
「いっきー!」
「おーし、今日は君たちに、僕の底力見せちゃうぞー!」
「お……おお?」
「すげー、マジで一気したー」
「ぷはーっ!どーだね、わはははは」
「ま、まぁ僕らだってそれくらいできますよ」
「まぁ、楽勝じゃね?」
「できるできるー」
「何だって?君たち、大人を舐めちゃいかんぜよ」
「ホントですって。そうだなぁ、僕らができないことといったら……」
「あそこの橋、あるっしょ?あそこから飛び降りるなんて無理じゃね?」
「あー、そりゃできねーわー」
「あ、あそこの橋?」
「あ、でも春ピーなら楽勝ですよねぇ」
「できんじゃね?根性あるっぽいし?」
「春ピーがんばれー」
「あ、実は怖いとか」
「ばっ、ななな何を失礼なこと言ってんだよ、あんたはっ!」
「じゃあできんの?」
「ももも、もちろんさっ!みみみ、見てなよ」
「あー、本当に橋の手すりに立った」
「でもそこからやっぱ逃げんじゃね?やっぱ無理でしたっつって?」
「ありうるー」
「失礼っすね、君たち!まあいいさ、見てなよ、これが男の意地ってもんだから」
「能書きはいいよ春ピー」
「きーっ!うるさいよっ!行くぞ!」
「……」
「あーい・きゃーん・ふら〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いっっ!!」
「あー……本当にやっちゃった」
「馬鹿じゃね?あいつ?」
「ふつーならー、馬鹿すぎてできないよなー」
「という……男の……熱い事情が……あったんだよ」
陽平の話を聞くうちに、あたしは眦が熱くなって涙がこぼれるのを感じた。
「何で……泣いてるのさ……ははは、ちょっとは感動した?」
「あんたがあまりにも馬鹿で、情なくて泣いてるんでしょうがっ!!」
あー、本当に情ないわ。というか、こんなんに恋してるあたしってどうよ?
頭を抱えたくなる衝動を何とか抑えて、あたしは聞いてみた。
「それで?仕事はどうなったのよ?」
「まぁ……最初の数日は行ってみたんだけどさ……結局風邪移す前に養生しろって……」
「まぁ、許可もらっただけでもめっけもんよね。首にならなかったのが不思議だわ」
ようやく口元に笑みが浮かんだ。
「本当に馬鹿ね、あんた」
「……」
「本当に馬鹿ね、あんた」
「……二度も言わなきゃいけないほど……大事なの?」
「いいえ?ただ言ってみたかっただけ」
「……そっか……」
さてと、とあたしは腕まくりをした。
「まずは掃除よね。あんたこんなところにいたら、健康体でも倒れちゃうわよ」
「……ごめん」
「しょうがないわねぇ」
あたしは辺りを見回すと、ゴミを掻きわけながら台所まで辿り着いてゴミ袋に手を伸ばした。
「何これ」×12回。「信じらんない」×9回。「ゴメン、治ったら殴らせて」×1295回。
かかった時間:三時間ちょい。
綺麗になった陽平の部屋での肺いっぱいの新鮮な空気:プライスレス。
「うわぁ……」
「ま、あたしの手にかかればこんなもんよね」
得意げに笑ってみせると、陽平もへへへ、と笑った。
「あ、陽平、ちょっと待っててね。買い出しして来る」
「あ、うん。ありがと」
ばいばーい、と手を振ると、陽平がひらひらと布団から手を振り返した。そんな子供らしさがおかしくて、あたしはくすり、と笑ってしまった。
コンビニに寄っていろんな物を買いながら、あたしはふと思いついて椋に電話をかけてみた。
『はい、もしもし?』
「あ、椋?ごめんね。ちょっといいかな」
『うん、どうしたの、お姉ちゃん』
「あのね、風邪に効く薬とかって、何があるかな」
『薬ならいろいろあるけど……お姉ちゃん、風邪なの?』
「あたしじゃなくて、陽平がね」
すると、急に電話の向こうから沈黙しか聞こえなくなった。揺すったりトントンと叩いてみたりして、壊れちゃったかなぁと思い始めた時
『ええええぇぇぇええぇええええええええええええええええええええええええええええええええええっ??!!』
ちょうど耳に当てていた時に音が割れるほどの大声で叫ばれたので、あたしの世界はモノラルになった。
「……いつつつつ。ちょっと、椋?」
『春原君が風邪って、冗談でしょ?』
「冗談なんかじゃないわよ」
『で、でも、春原君って馬鹿だよね?』
どう答えろと?
『馬鹿って風邪をひかないんだよね、お姉ちゃん?!』
「椋、あんたも看護婦なんだから、例外があることぐらい予想しておきなさいよ」
『そうだけど……どうしてそうなったの?医学的に興味があるかな』
「人の彼氏の不幸に医学的興味持たないでよ。強いて言えばね、世の中には馬鹿でいることが当たり前すぎて、風邪ですら普通だと引っかかっちゃう馬鹿もいるってこと」
『お姉ちゃん、そんなのと付き合ってて大丈夫?』
椋の声に憐れみが含まれた。我が妹ながら痛いところをついてくる。
「そんなのあたしの勝手でしょ!とにかく、風邪に効く薬って何よ」
『症状は?』
「頭痛と寒気と鼻水。熱もあるわね。筋肉痛はなし」
『結構ひどいね』
「そうなのよ」
『馬鹿なのに』
「だまらっしゃーいっ!!」
あたしが思わず怒鳴ってしまったので、コンビニの中の客があたしに一斉に注目した。ああ恥ずかしい……
『お姉ちゃん、大声出したらだめでしょ』
「誰のせいよ!大体あんただってさっき大声で叫んでたじゃない」
『で、薬の話だけどね。頭痛は痛み止めとしてイブプロフェンがおすすめかな。それから鼻水には抗ヒスタミン剤が聞くから、ちょっと聞いてみるといいと思う。あとは暖かくして寝ること』
あたしは急いで手に椋の言った薬をメモした。
「イブプロフェンと……抗ヒスタミンっと。総合風邪薬は?」
『症状がはっきりしてるんだったら、その症状に効く方がいいよ。いらないものも入ってないわけだし』
「いらないものって、例えば」
『小麦粉』
一瞬、耳を疑った。
「……は?」
『味の素。塩。ひどい場合は砥粉も』
「……嘘でしょ」
『嘘じゃないよ。冗談なだけ』
ああ椋。
あたしのかわいい妹の、あたしが今まで大切に守ってきた椋。
お願い、次あったらちょっと顔を貸して。
『とまぁ、危ないものが入ってる可能性があるからちゃんとした薬局で薬は買いましょう』
「変なところで買ってるかのように言わないでよね、もう」
何だかあたし自身が頭痛薬が必要になってきた気がする。
『でも、そういうのが混ざってた方が、春原君がどんな反応するのかが見れて面白いかも』
「だーかーらー、あたしの彼氏をそんな実験材料のラットみたいにしないでくれる?」
『やだなぁお姉ちゃん。ラットは死ぬけど、春原君は何やっても死なないよ』
「……陽平が入院している時に、何やってたのよ、あんた」
『えーっと、たーっくさんの異端審問』
「それなんてシエル先輩」
埋葬機関もまぁある意味ブラックな就職先だとは思うけど。
『なーんて冗談だよ』
「ぜんぜんそう聞こえないのが悲しいところね」
『あとお姉ちゃん』
「あによ」
『春原君が動けないからって、食べちゃったりしたらだめだよ?そういう激しい運動は養生中は禁止だからね』
「するかっ!!」
ああ、いつの間にかこんなに豹変してしまったのだ、私の妹。
あたしは携帯を切ると、さっき言われた薬を探し始めた。しかしどうにも気になる。いくら椋でも姉の恋人を毒殺しようとは思わないだろうが、そもそも陽平が死ぬということに関しては疑いを持っているようだ。だからもしかすると「殺すつもりはなかったけど、死んでしまった」「殺すつもりじゃなかったし、死にはしなかったけど、死んじゃうかと思った」とかいうくらいの大惨状になりかねない。やっぱりここは妹を殺人犯にしないためにも、一応別の方法は取るべきなんじゃないかと思う。どこかで「それって僕が死ぬよりも椋ちゃんが逮捕されることの方が心配ってことですかねぇっ!」と聞こえた気がするけど、念のため「病人は黙って寝てる!」と念じてみた。
「そうねぇ……風邪に効くっていったら……」
ふと思いついて、あたしは微笑んだ。
「で、作ってみたわけなんだけど」
あたしは笑顔で陽平に言った。手にはスプーンとお粥の盛ってあるお茶碗。
「あー……何だか食欲湧いてきたかも」
「そりゃあね。あんた、ここんところロクな物食べてなかったじゃない」
片づけている時にゴミを拾えば、だいたい何を買って食べていたかもわかるというものだ。
「起きられる?」
「何とか……」
上半身を起こして、陽平があはは、と笑った。
「何よ」
「や……杏っていい彼女だなぁって……」
顔が瞬時に赤くなった。恐らく熱にうなされてる陽平よりも。
「ば、馬鹿な事言ってんじゃないの!ほ、ほら、早く口開けなさいよっ!」
「へ?何でまた?」
あーくそ、このタイミングで言わせるのかこんな恥ずかしいこと!
「あ、あんたみたいなそそっかしいのだったら、こぼしちゃうでしょうがっ!その布団洗濯しなきゃいけなくなったら面倒でしょ!」
「え?大丈夫だよ」
「いいからっ!さっさと口を開ける!はい、あーんっ!!」
さすがに何度も病院に担ぎ込まれるはめになった陽平の見舞には行っているから、「あーん」に馴れていないわけではないが、その間の食事が少しばかり不器用で恥ずかしかったのは確かだった。
「……ごちそうさま」
「はい。次からちゃんと素直に口を開けてればよかったのよ」
「開けてたじゃん。でも杏が喉の奥までスプーンを突っ込んだりするから」
「あ、あたしのせいにするのっ!」
「いや、でも」
「あァ?!」
「……何でもないです」
よし、とあたしは腰に手を当てて頷いた。
「で、これからお薬タイムに行くんだけどね」
「……あー。飲まなきゃダメ?」
「当たり前でしょ。さてと、薬の前にちょっと試さなきゃいけないことがあるから付き合って」
「へ?」
ごそごそとあたしはコンビニの袋を漁って「それ」を取り出した。
「……え、えと杏様」
「なーにっ、陽平君?」
「それってもしかすると……いや、もしかしないでもネギだよね」
あたしの手に握られた長ネギを指差して、陽平が引き攣った笑みを浮かべた。
「それを、どうするのかなぁって」
「もちろん、この特殊な形状を使って穴に刺すのよ。ぶっすりと」
「そそそそれって、どこの穴っすかっ!!」
「まぁまぁ」
「いや、そこで誤魔化さないでよっ!」
「死にはしないわよ」
「ぜんぜん安心できないよっ!!そっちはまだ初めてだって!!」
「何事も最初が肝心って言うでしょ」
「こんな初めて絶対に嫌っす!!」
「それじゃ、そういうことで」
「どういうことだよっ……ってやめてとめてやめてとまてやめてとめてぎゃっぁああああああああああああああっ」
ぶすっ
「これで治らないんだから、夏風邪って怖いわよねぇ」
「……あのは」
「ん?何?」
「これっへへっはいなにはまひがってるよね」
「そう?」
これ、というのは陽平の鼻にぶっすりと刺さっている長ネギのことだった。ネギには風邪を良くする成分があると聞いたので、患部と接触させれば治ると思ったのだが。
「じゃあ引っこ抜く?」
「鼻血がでほうはら、よひとく……それよひ」
「それより?」
陽平がにやぁっと笑った。ネギを鼻に刺したままなので、いつもより不気味だった。
「椋ひゃん、僕にあったはふしてねへろって言ったんだよね?」
「まあ、そうよね、寒気がするんだったら」
「じゃあは」
陽平がじりじりと迫ってきたので、あたしは嫌な予感がした。
「きょうひゃんっ!そのすべすべお肌で僕をあっはめてくだは……」
「寝てろ」
あたしの垂直肘落としを後頭部に喰らって、陽平は眠り込んだ。
病気で頭がおかしくなったであろう彼氏ですら、襲い掛かってきた際には後頭部を陥没させて沈黙。これぞまさしく杏様クオリティ。